43歳、梅雨のある日。はじめて哲学にふれてみた

43歳、梅雨のある日。はじめて哲学にふれてみた

CORECOLORという媒体で、ドキュメンタリー映画『ぼくたちの哲学教室』のレビューを書かせてもらったことがきっかけで、ライター仲間の数名で公開中の映画を見に行こうということになった。
試写のときは私はメモをとりながら見ていたから、今回は画面に集中できた。
スクリーンに映し出される子どもたちの表情に、胸を打たれた。

そして、せっかく哲学の映画を見るなら、とこの本を読んでみた。
参加しているオンラインサロンのメンバーの方に教えてもらった、永井均 著『子どものための哲学対話』。

子どものための、とある通り、思考を深めることが苦手な私にもわかりやすかった。
いろんな哲学者の考えが散りばめられているらしい。
心に残った文章を、メモに残す。

きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それと同じ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことができる可能性がある

『子どものための哲学対話』(p36)

人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなこと

『子どものための哲学対話』(p69)

(いやなことをしなければならないとき)なにかをやりとげようとしないで、ただ、やりはじめようとするんだよ。やりはじめるだけでいいって考えるんだよ。

『子どものための哲学対話』(p72)

対立っていうのは、ほとんど前提を共有しているもののあいだでしか、起こらない

『子どものための哲学対話』(p80)

(ニュートンは)新しいものを見つけたわけじゃない。見かたを変えたんだよ。新しい見かたを発明した

『子どものための哲学対話』(p105)

こういうはなしは、どれも、たまたまある場所に立った人にだけ、意味を持つんだ。別の場所に立っている人には、無意味で、ただごちゃごちゃしているだけなんだ。
〜(中略)〜この本のほんとうの意味っていうのは、読者ひとりひとりにとって、それぞれ違っていていい。だいじなことは、自分で発見するってことなんだ。

『子どものための哲学対話』(p126)

考えるのが苦手な私にも、とてもわかりやすかった。
「哲学」ってなると、ちょっと近寄りがたいけど、でも、実は意外とみんな普段の生活で考えていることなんじゃないかな。その思考を深めたものが哲学なのかも。と思った。

「だいじなことは、自分で発見するってこと」の部分は、『ぼくたちの哲学教室』でケヴィン校長が言っていたことと重なった。

43歳になるまで気づかなかった自分の哲学的思考

そういえば、中学生のときによく考えていたことがあった。

「私の目に見えているこのコップは、白色でコロンとした丸っぽい形に見えてるけど、
もしかしたらほかの人の目には、私の目に見えているような形に見えていないかもしれない。
その人には赤色で四角っぽい形に見えているけど、その人にとってはそれが私の言葉で言う“白色で丸っぽい形”かもしれない。

自分ではどうやってもほかの人の見かたを確認することができないから、わからない。
そうしたら、それはきっとだれにも確認できないこと。
そうなると、色も、形も、この世界全部がもしかしたら人それぞれみんな見えかたが違うかもしれない」

まさかこれが哲学的だとは知らなかった。
43歳になって気づくとは! それだけ自分が哲学を避けて生きてきたんだと思う。
「ごちゃごちゃ考えるの苦手ー」と思っていた。

だけど、この本にあったように哲学は
「たまたまある場所に立った人にだけ、意味を持つ」
ものらしい。

たぶん、最近の私は、その場所に立っている気がする。子どもたちとの会話で、考えても答えが見えない質問をされることがあるからだ。
日々に忙殺されると、立ち止まっていろいろ考えられなくなるけど、次に子どもとの会話でチャンスがあったら、これまでみたいにあきらめないで、「どうしてだと思う?」と、一緒に考えてみたいな、とちょっとだけ思った。

たまにはごちゃごちゃ考えるのも、いいかもしれない。