次男小学校卒業

次男小学校卒業

次男が小学校を卒業した。
卒業、といっても、次男はあんまり小学校には通っていない。
次男の卒業にあたって、これまでのあれこれと、母がじたばたした記録をメモしておきたいと思う。

(写真は卒業記念に家族旅行した伊豆の大室山を歩く次男)

次男の登校の様子

小学校1〜2年生のころから行きしぶりが始まり、保健室登校をする日も多かった。
3年生には担任の先生がこわすぎて、後期はほとんど登校しなかったと思う。
4年生の後期から、教育相談センターのゆうゆう広場という場所に半年ほど通い
5年生は…どうだったかな、オンライン授業とか受けてたのかも。
冬からはフリースクールに通うようになった。
6年生の2月まで、約1年間フリースクールに通った。
6年生の登校は、数回だったと思う。
でも、フリースクールに通った日が、登校扱いになるので、6年生での約200日のうち、77日くらい、登校したことになっている。

軽度のASDと診断

次男は、小学校4年生の冬に、発達検査の結果、ASDの診断がおりた。 正しくは「ASDと重なるところが多い」。
医師から「教室で過ごすのは難しいでしょうね」と言われた一言に、すごく安心したのを覚えている。
次男の診断が降りるまで、私はあの手この手で、なんとか次男を登校させようとしていたと思う。
あるいは、ゆうゆう広場という行政の教育支援施設など、学校とは違う居場所を用意しようとしていた。
少しでも、家以外の場所で過ごす選択肢、家族以外の人とのコミュニケーションを取れる場を、用意したかった。

ASDの診断がおりて、心が楽になったのは、医学的に「学校は向いていない」と太鼓判を押してもらえた気がしたからだった。
学校に行かない正当な理由ができた、ような。

わが家は長男も不登校だった。
長男は、過剰適応によるもので、次男はASDの特性によるもので、不登校でも理由が少し違った。
でも2人とも「教室のなかにいること自体が息苦しい」と、言っていた。

長男の不登校の経験から、次男も学校へ通うことをゴールにしない、と考えてはいた。
だからといって、親として次男が毎日ゲームをするだけの日々にしてしまうのは、どうかと思った。
不登校児の親たちはみんな、そういう葛藤を持っていると思う。
子どもには、世界の広さやすばらしさや美しさを、知ってほしい、という気持ちがあった。

安心できる居場所が見つかった

次男の居場所を色々探し、5年生の冬に、フリースクールの見学会に行ってみた。
家から車で30分程の距離にある、都内のフリースクール。
次男は、見学の日にすぐお友達ができて、親が説明会に参加している1時間ほどのあいだに、鬼ごっこをして汗をかくほど遊んでいた。
次男は「ここに通ってみる」と、すぐ決めた。
友だちもできて、オンラインゲームで彼らとよく遊ぶようになり、フリースクールでのできごとも楽しそうに話してくれた。
学校で過ごすときよりも、いきいきとしているように見えた。
親子ともに、ほとんどストレスがなくなった。

「学校へ行ってみようか」。低学年のころ、朝、そんなふうに次男に声を掛けると、彼は体育座りで体を固くしていた。
彼が、いちばん「学校に行くべきだ」と思っていた。
だから「学校に行かれない自分はダメだ」と思っていた。
その上、親から「学校に行ってみよう」と言われるなんて、つらすぎるではないか。
と、今はわかる。

私が「もういっか」と思って、学校のことを言わなくなってから、親子ですごく楽になった。

たまに、人にそういうふうに話すと「子どものためにならない」と言われることがある。
そんなことは、不登校児の親は、365日考えているのだ。
彼らしくいられる場所があればいい、と、思う。
彼にとってその居場所が外になく、家ならばそれでいい。

中学校の支援級が選択肢に

もうすぐ小学校を卒業する、秋ごろになって、進路のことを考え始めた。
これまでどおりフリースクールに通って、中学校は在籍だけでいいかな、と、親子ともに考えていた。
そんなあるとき、次男が幼稚園のころから仲よくしているお友だちの兄が、中学校で支援級に通っている、という話を、そのママから聞いたことを思い出した。
なにかのタイミングで、そのママ友に支援級の様子を聞いてみたら、「すごくいいよ」と教えてくれた。
子どもの特性に合わせて、通学のタイミングも配慮してくれ、オンライン授業も出席扱いにしてくれ、生活に役立つ知識(遠足に行く際の電車賃の計算など)も丁寧に教えてくれるという。

次男は小学校4年生くらいから授業をほとんど受けていないから、国語も算数もそこまでの知識しかない。
それでも、その子に合わせたプリントを用意してくれるのだという。

支援級入級が決まるまでの数カ月のこと

次男が6年生になったころから、小学校で数カ月に1度スクールカウンセラーの面談を受けていたので、その人に支援級のことを相談してみると「時期的に間に合うかわからないが、ASDの医師の意見書があれば、入級の手続きが取れるはずだ。まずは早めに中学校の支援級の先生に連絡するように」と教えてくれた。
同時に、ASDの診断を受けた発達支援センターに、意見書の作成をお願いするように、とも言われた。
それが2023年の12月末ごろのこと。

年末に中学校の担当の先生に電話すると、すぐに支援級と通常学級を見学する時間を設けてくれ、支援級で行う授業の説明もしてくれた。それが2024年の1月。
次男が、見学をしてみて、「支援級なら通えるかも」と意向を示したため、支援級の先生が「それなら、小学校のコーディネーター経由で教育相談センターに連絡し、入級の手続きを聞くように」と教えてくれた。

通常なら小学校経由での連絡になるそうなのだが、私が自分で調べて必要書類を作成していたために、小学校のコーディネーターからは「お母さんが直接教育相談センターに電話して大丈夫です」と言われた。
中学校の支援級の先生が、おそらく話を通してくれているはずだ、と。

そこから、教育相談センターの面談を受け、子どもも支援級入級にふさわしいかの面談を受け、さらに、発達支援センターでも再度診断を受け、無事に医師の意見書をもらった。
意見書を教育相談センターに郵送し、教育委員会に届け出てもらい、次男の支援級入級が決まった。
こうして書いてみると、ほんとうにややこしい。

フリースクールは卒業

中学校に行ってみる、と次男が言うとは思わなかったので、本当にバタバタとした数カ月だった。
ただ、フリースクールに通い続けることの難しさも感じていた。
それは、金額のこと。

次男が通っていたフリースクールは、月数万円の費用がかかっていた。
都民なら、不登校児の調査に協力すると都から2万円の補助が出るけれど、川崎市民は補助はない。

夏過ぎくらいから、次男はフリースクールに通う日数は、週に1〜2回ほどになっていた。
国からのフリースクールへの補助がないので、高額なのはしかたない。
次男の居場所や経験になるなら、私が頑張って働けばいい、と思っていた。
でも、週1回しか行かないとなると、「どうなの?」と思うようになった。
しかも、その1回も、友だちとゲームをする時間。

そこで、次男に、もし今後もあまり通わないようなら、その数万円を、ほかのことに使ってみるのはどうか、と相談してみた。
そんな経緯もあって、支援級を見学してみて、次男が「ここなら通えるかも」と言ってくれたのは、親にとってはありがたいことだった。

学校に行かない子の小学校生活

そんないろいろを踏まえての、次男の小学校卒業。
だから、小学校の思い出、というのも、正直あんまりない。
思い入れもあんまりない。学校生活をがんばったね!ともあんまり思わない。
だって次男にとって、小学校はそんなに楽しい場所ではなかったから。

それでも、卒業式の前の1週間は、次男は毎日登校した。
卒業式に出る、と決めて、そのためには歌や証書をもらう順序などを練習する必要があった。
勉強がなくて、午後にはみんなでドッチボールをして遊んだりする時間があって、1週間は割と楽しく過ごせたらしい。
給食も毎日食べてきた。

これは本当に、5年生から担任をしてくれた先生のおかげだった。
いつも次男を気にかけてくれ、特別に放課後授業に時間を持ってくれた。
「来ないとダメだよ」とは決して言わない。
「会いたいな、来てくれたら嬉しいな」と言ってくれた。
私の心にもいつも寄り添おうとしてくれた。
そんな先生のおかげもあって、次男が卒業式に出られて、よかった。
ほかのお友だちとは違う小学校生活だったけど、節目の記念になったと思う。

母はいろんなことがありすぎて、たぶんこれからもいろんなことがあるだろうから、感傷にふけることはできなかった。
学校に行かない子。その子の居場所のために、いくつもの行政の支援機関とやりとりしたし、民間のセミナーもたくさん聞いたし、不登校児のコミュニティにも参加したし、たくさん本も読んだ。
母は、じたばたしたなぁ。

次男が卒業式に用意してくれた親への手紙には
「いろんなことを調べてくれてありがとう」と書いてあった。
これから私はもっといろんなことを調べるんだろう。
彼が自分の人生を、自分で働いて生きていかれるように、
色んな人の手を借りて、母も学んで、準備していかなくてはならない。
彼が成人するまで、それが私の責任。
と、決意を新たにした、卒業式だった。